エナンチオマー(Enantiomer)とは、D-グルタミン酸とL-グルタミン酸のように“重ね合わせることの出来ない鏡像体”のことであり、鏡像異性体とも言われる。

異性体というのは、組成(原子の種類・数)が同じで構造の異なるものことであるが、鏡像異性体の場合は、その中でも特に“立体異性体”と呼ばれるものであり、原子の数・種類だけでなく結合順も同じである。違うのは“立体的構造”なのである。つまり、ある原子のまわりの結合の方向が異なるのである。

炭素原子のまわりに、X,Y,W,Zと4種類のモノ(原子のときも原子団のときもある)が結合しているとしよう。下図に示したAとBは鏡像体であり、どのように回転させても、重ね合わせることは出来ない。このときAはBのエナンチオマー(逆もしかり)と言う。

エナンチオマーは、融点、沸点、密度などの、通常のほとんどの物理化学的性質は同じであるが、ただ一つ、旋光性だけが異なる。旋光性とは、光の偏光面を回転させる性質である。


通常の光はさまざまな方向の振幅の波の混合物(円偏光)である。この光を一方向の振幅の光だけを通すフィルター(偏光フィルター)を通すと、定まった方向だけに振幅を持つ面偏光となる。キラル化合物は、この面偏光の“面”を回転させる性質があり、上図のようにキラル化合物の溶液を通って出てきた偏光の偏光面は元の偏光面からαだけ回転している。このαを旋光度といい、濃度などにより換算した値を“比旋光度”といい[α]で表す。

このように言うと、旋光度というのは高尚なモノのように思うかもしれないが、実はスイカの甘さを測るのに使ったりもできる。スイカの絞り汁の旋光度を測ると、その中のショ糖(キラル化合物である)の量を推測することが出来るのである。ちょっと太めのサインペンのような“糖度計”でスイカの甘さを測るのは、実は旋光度測定だったのである。

旋光度以外の物理化学的性質が同じとは言っても、相互作用する相手がキラルなものであるとエナンチオマー間で挙動が異なることは、よくある。グルタミン酸の味の違いもそうであるが、生体内にあるキラルな受容体(レセプターと言うときもある)とのマッチング(相性とでも言いましょうか)が異なるのがその理由である。


簡単なイメージで説明してみよう。上図は、受容体へのエナンチオマーの“はまり方の違い”を絵にしたものである。左の絵では、受容体にあいた3つの穴に、3つの原子団(緑、青、黒で示してある)がぴったりとはまるように分子が近づいていける。しかし、右の絵のように、エナンチオマーでは、どうやっても一つの原子団(この場合はオレンジのもの)が受容体の穴にはまらない。つまり、この時、左のエナンチオマーでは受容体との間で何らかの相互作用がおこり、味を感じたり匂いを感じたり、いい気持ちになったり・・・・するが、右のエナンチオマーでは同じ状態にはならないわけである。


グルタミン酸とは異なる例を示すと、(-)-リモネンと(+)-リモネンはエナンチオマーであるが、匂いの受容体とのマッチングが異なるため、(-)-リモネンはテレピン油の香りがするのに対して、(+)-リモネンはオレンジの香りがする。これは、おのおの異なる受容体にマッチするためであると考えられる。結合の方向が違うだけで、これだけ“性質”が異なってしまうこともあるわけである。
このページの図の一部は「ボルハルトショアー現代有機化学(化学同人)」からお借りしました。