サイドマイドは、薬害の代名詞のように言われる事が多い。
睡眠薬として発売されたサリドマイドは、妊娠初期の女性が服用することにより胎児に奇形を起こし、大きな問題となり、すぐに発売停止になった。その後、実は、サリドマイドのエナンチオマーのうちの片方だけが催奇性(奇形を引き起こす性質)がありもう一方のエナンチオマーは全く副作用がない、つまり、そちらだけを飲んでいれば“サリドマイドの悲劇”は起きなかった、という説が出てきた。経済的というよりもむしろ技術的な問題で、サリドマイドはラセミ体(両エナンチオマーの等量混合物)で売られていたのである。
だから、エナンチオマーの片方だけを作り分けることは重要なのだ、というのは昔からよく言われており、先日も2001年ノーベル化学賞受賞者の野依良治教授が受賞講演で、不斉合成(キラルなものを作ること)の重要性を説明するのに、この話を引用していた。だが、この話、正確に言うと正しく無いのである。
実際には・・・・
G. Blaschkerらは、ラセミ体のサリドマイドをpoly[N-(S)-(1-cyclohexylethyl)methacrylamide]カラムで光学分割(エナンチオマーを分離すること)し、各エナンチオマーをラットに腹空内注射することにより、S体のみが催奇性があることがわかったと論文発表した(Arzneim.-Forsh., 29, 1640-1642 (1979))。おそらくこれが、「ラセミ体で販売されたから起きた悲劇」と言われることとなったきっかけなのだろうが、実はこの実験、いろいろな人がやってみても再現しにくいという話である。データがばらつくらしいのである。
その後、G. Blaschker(上記と同一人物です)は1994年になり、サリドマイドのラセミ化(エナンチオマーがラセミ体に変化すること)がヒト血漿存在下で加速されることをHPLC(注)で確認したと報告している(J. Chromatography A, 666, 235-340 (1994))。また、同年に、Y. Hashimotoらは、37℃、pH7.4における半減期(半分がラセミ化する時間)が566分であることを発表している(Chem. Pharm.Bull., 42, 1157-9 (1994))。これらはつまり、たとえ催奇性のないエナンチオマーだけを摂取したとしても体内で催奇性のあるエナンチオマーが生成してきてしまうことを意味する。G. Blaschkerらの1979年の報告の再現性の問題も、このあたりに起因するのではなかろうか。薬害としてはセンセーショナルなものであったので今でも伝説のように言われている「片方のエナンチオマーだけに副作用」というのは多少あやしい・・・のである。
こうなると、「副作用のないエナンチオマーだけを作る」技術である不斉合成に意味はあるのだろうか? よく考えてみて欲しい、G. Blaschkerらが1979年にラセミ体のサリドマイドを光学分割したpoly[N-(S)-(1-cyclohexylethyl)methacrylamide]という“光学活性ポリマー”は現在多方面で活用されている光学活性カラムの原形みたいなものであり、不斉化学研究の成果によって生まれてきたものであるし、1994年になって、溶液中のエナンチオマー濃度を測定したのは、光学活性カラムを利用したHPLCである。最近では、さらに微量の物質の定量まで可能となり、血中におけるエナンチオマー濃度を決めることすら簡単に出来るようになってきている。これらはすべて不斉合成化学の進歩によるものであると言って決して過言ではない。
また、サリドマイドの場合はラセミ化の問題があったが、ラセミ化の問題のない他の薬物でも、エナンチオマーによる作用の違いというものが認識されるようになり、「各々のエナンチオマーの作用を調べる」ことは極めて重要な事となってきている。つまり、不斉合成なくしては、医薬品開発は出来なくなってきているのである。
不斉合成の大事さを説明するのにサリドマイドを例にあげるのは、厳密な意味では正しくはないが、間違ってはいない、といったところであろうか。
サリドマイドの復権
ところで、サリドマイドはアメリカとフランスでは再認可されている。実は、睡眠薬として開発されたサリドマイドであったが、免疫抑制作用もあり、ハンセン病治療薬として使えることがわかってきたのである。アメリカでは、ハンセン病治療薬として1996年7月16 日に認可されている(現在認可されているのは、アメリカとフランスだけであり、日本では認可されていない)。さらに、この免疫抑制作用が、リュウマチ、各種の痒疹や皮疹、狼疹、アフタ性潰瘍、ベーチェット病などの難病に対しても有効であることが報告され、臓器移植後の主な死亡原因であるGVHD(移植片対宿主病)に対しても有効であることが確認されるなど、サリドマイドは再浮上してきている。エイズウイルスの増殖を促進する因子TNF−α(腫瘍壊死因子)の産生を抑制することによってエイズに対する有効性を発揮する、という報告すらある。
最近では、サリドマイドの化学構造的活性検索が大いに進んだ結果、あの忌まわしい催奇性は取り除き、サリドマイドの多岐にわたる 薬効だけを持った“新サリドマイド”の開発研究も行われている。もちろん、これらの研究にも不斉合成化学は密接に関係している。