不斉炭素のまわりに4つの異なる置換基がついたときの話を、これまでしてきた。このようなものを中心性キラリティという。
 しかし、実はキラリティには、他にも、軸性、面性のものがある。それらについて、以下に例を挙げてR, S表記を含めて説明する。

軸性キラリティ

 キラル中心が無くても「キラル」な化合物というのは存在する。“キラルな軸”というものが存在するとキラル中心はなくても鏡像体となることがあるのである。
 代表的な例として、アレン、がある。アレンというのは二重結合が2つつながった基本構造をもつものの名前であり、ねじれた構造を持っている。
   1,3-ジクロロアレンには、下図に示すように2つの異性体があり、これらは鏡像体である。どうひっくり返しても重なることはない。



 これは、連続した2重結合を作っている3つの炭素原子のうち2つの末端炭素原子と、それに結合している3つの元素とが作る平面が互いに垂直であることに起因している。この2重結合は、通常条件下では回転することはないので“ねじれ(注)”が存在することとなり、そのねじれの向きにより2種類のエナンチオマーが存在するわけである。
 では、このねじれの向きをどう区別したらよいのであろうか? 実は、これは、キラル中心のR, S表示をするのと同じような考え方で区別するのである。



 1,3-ジクロロアレンの立体構造を分かりやすく書くと、上図のようになる。四面体の頂点についている原子(or置換基)に優先順位を付ければ、通常の不斉炭素の場合のように四面体の重心の回りの配置を表記出来そうであるが、実はそうはしない(これは不斉炭素のときのような“正四面体”ではないのである)。
 軸不斉の表記の場合、まず軸の上下のどちらを優先するかを決める。これは、任意であるが、優先すると決めた側についている2つの原子(置換基)は順位則に関係なく反対側の2つの原子(置換基)よりも優位とする。そして、つぎにそれぞれの側で2つの原子(置換基)の間の優先順位を決める
 軸の上のほうの側を優位としたとすると、4つの原子(置換基)の順位が下図のようになる。あとは、普通のキラル中心の配置の決め方と同じである。もっとも優先順位の低いもの(4)の反対側から3つの原子(置換基)を眺め、優先順位の高いほうから低いほうに原子(置換基)をたどり、時計回りなら、反時計回りならとするわけである。すなわち、図のアレンは(R)-1,3ジクロロアレンということになる。
 軸の上下どちらを優先とするかは、実は問題にならない。実際にやってみて欲しい。結局、同じ配置になるのである。

アトロプ異性体

 アレンのように、全く回転出来ない軸でなくても、回転に制限がかかる場合は軸不斉が生じることがある。
 ベンゼンが2つ繋がったものをビフェニルといい、このベンゼン環をつなぐ結合は自由に回転することができるが、ベンゼン環上に置換基があると、その立体障害(平たい言葉で言うと、“ぶつかってしまうため”ということ)により回転がおこりにくくなる。ある程度大きな置換基が、(ベンゼン環間の結合に対して)オルト位(ベンゼン環上で隣の炭素にある意)にあると、すこしは回転できるが“一回転”は出来なくなる。こうなると、A、Bに示すようなエナンチオマーが存在することとなる。このような異性体をアトロプ異性体という。



 見てわかるように、ニトロ基(NO2)、カルボキシル基(CO2H)がぶつからない範囲内では回転することは出来るのであるが、一回転は出来ないため、2種類の“ねじれ”は区別することができ、この区別はアレンの場合と同じように行なうことが出来る。すなわち、AがR体、BがS体となる。



 このアトロプ異性体のある分子として有名なものが、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治教授が開発・応用したBINAPである。BINAPの場合、ナフタレン環そのものと、ジフェニルホスフィノ基(PPh2)が立体障害となり、2つのナフタレン環を結ぶ結合は一回転出来なくなっている。トリフェニルホスフィン(PPh3)というのは遷移金属触媒の配位子として非常によく使われるものであるが、BINAPは、そのキラルバージョンとして実に多くの不斉反応に応用されている。

面性不斉

 ベンゼン環は平面構造をとっており、通常は表裏の区別はない。しかし、下図に示す[8]パラシクロファンのようなものでは、カルボキシル基(CO2H)がメチレン鎖(CH2CH2CH2CH2CH2CH2CH2CH 2)の部分に引っかかってしまいベンゼン環は自由に回転することは出来ない



 つまり、A、B2つのアトロプ異性体が存在するのであるが、これらはエナンチオマーである。このベンゼン環は、裏表の区別があることになり、このような不斉のことを、面性不斉、という。この面性不斉もR,S表示することができる。



 まず、不斉面を選定する。これは、上図の例ではベンゼン環となる。そして次に、パイロット原子を選定する。これは、不斉面を眺める分子を指定するものであり、不斉面に最も近い“面外の”原子であり、優先順序の最も高いモノとする決まりになっている。上図Aの場合、面外原子はa、bの2つあるが、カルボキシル基との位置関係で、優先順位はaのほうが高いので、aがパイロット原子となる。
 次に、このパイロット原子aから不斉面へと進み、優先順位の高い方向へと曲がる。そのときのまわる向きがaから見て時計回りならばR、反時計回りならSと表示する。つまり、AはS体、BはR体ということになる。

ついでに

ヘリシティ

 ネジのような“らせん(helix)”にはキラリティがあり、これをヘリシティという。右巻きと左巻きがあるのであるが、これは、右ネジのように“時計回りにまわりながら進んでいく”ものを「P-」、左ネジのように“反時計回りにまわりながら進んでいく”ものを「M-」という。Pはプラスの意味で、Mはマイナス、である。



 低分子でこのようなものがあるのか、といわれれば、ある、のである。上図のヘキサヘリセンは、最初のベンゼン環と最後のベンゼン環は同一平面にあるとぶつかってしまうために、上下にずれる。このズレ方によってヘリシティがでる。

(参考図書:化学総説4「不斉反応の化学」東京大学出版会)

なぜアレンはねじれるか?
 それは二重結合のでき方を説明しないといけない。
炭素ー炭素の二重結合というのは、線2本で書くが、決して同じ結合が2本あるわけではない。実は2重結合というのは、炭素原子が持っている結合用の混成軌道(ここに電子が入っている)が正面から重なり合ったシグマ結合と、混成軌道を作成した際に余っている軌道(p軌道)に入っている電子同士が並んで重なり合ったパイ結合の2本から出来ているのである。
 アレンの二重結合の末端の2つの炭素原子はsp2混成という状態にあり、3本のsp2混成軌道と1つのp軌道(すべて電子がひとつずつ入っている)を持っており、真ん中の炭素はsp混成状態であり、2本のsp混成軌道と2つのp軌道(やはり電子はひとつづつ入っている)を持っている。真ん中の炭素の2つのp軌道は互いに垂直である。



 このような状態で、混成軌道同士でシグマ結合を作り、p軌道同士でパイ結合を作るとどうなるか、を図示すると下図のようになる。つまり、左側の二重結合を作るために真ん中の炭素のp軌道のひとつは使われてしまうため、右側の二重結合を作るためには、それとは垂直であるp軌道を使わなければいけなくなるのである。混成軌道を作る場合、混成軌道と残ったp軌道は垂直である。つまり、両末端の炭素のsp2混成軌道とp軌道は垂直であり、パイ結合生成に使用されるp軌道が互いに垂直であるために、sp2混成軌道どうしも90度の角度をなすこととなる。
 両末端の炭素に置換基がつくときは、このsp2混成軌道とシグマ結合をつくることになるため、4つの置換基は90度ねじれた状態になることとなる。この2重結合が回転するということは、p軌道が重なり合って出来ているパイ結合を切ることになるため、通常の条件では回転はおこらない。つまり、ねじれは保存されるわけである。